生きている作品、死んでいる作品

いつだったか、数年前に美術館である作家の展覧会を見たときのこと。 それまでに街の画廊でその作家の展示は何度かみており、そのときに感動した作品も出品されていたのだが、どういう訳か、その美術館の展示では、全く魅力を感じなかったことがあった。

作品完成後時間が経っているからなのか、時代が変化したのか・・・。と帰り道で考え込んでしまった。

その後しばらくそのことが頭を離れず、あれこれ思い巡らせていたのだが、ある時、ふと、’90年代末に埼玉県立美術館で見た、「ドナルド・ジャッド」の回顧展を見たときのことを思い出した。

私はそれまで、ジャッドの作品は国内の美術館でミニマル作家の一人として展示された作品しか見たことがなかったので、特に惹きこまれる作品という印象はなかったのだが、埼玉での回顧展の展示では、作家自身は亡くなっていたにもかかわらず、正に作家が設置したかのような、臨場感、官能を味わった。ミニマルでもこんなにエロティックなのだ、と強烈な印象をもった。

そして、先の作家と比較してみると、展示の仕方もあるし、作品のある種の「完成度」の違いがあるのではないか、と思った。
「完成度」というのは違うかもしれない。作品を完成させるとは、どういう状態のことを意味しているのだろうか。
完成とは、固定して止まっており、動かない状態のことなのか・・・。 美術館での収蔵のためには、保存の条件があるだろうから、 それを前提として固定化させる技を使わざるを得ないと推測できるが、そのことが作品の、一種「生ま」の魅力を奪っているのではないかと、想像する。

勿論、美術館の収蔵作品の中でも「生きている作品」もある。
作品が生きている、というのは、動き、変化する「隙間・余分」のような部分が残っていることなのだろうか・・・。

作家が「出来た」と手を止める瞬間はいつなのだろう。手を止めた後のことを考えているのだろうか。

私は仕事柄、作家の展示に立ち会う訳だが、作家がどのように「finish」と感じるのかを見ていると、「直観」としか言いようのない瞬間があるのだ。 特に空間を意識した作品の場合は、作品そのものは組み立てられ展示された後、微調整や照明で、印象がガラッと変わり、「生きている」というリアリテイーが突然出現する。
その瞬間は正に「身体が震える」感覚を味わう。

その理由は何なのか、私もはっきりとは、判らない。
「完成」とは何か、これからもじっくりと考えてみたい。

もし、判っている方がいらしたら、教えていただきたいと思っています。

T/A

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