展覧会

黒瀧紀代士
「存在は不在
存在が不在」

KUROTAKI Kiyoshi

2018年7月16日(月)~7月30日(月)

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本展は
「幻触」と松澤宥の「観念芸術」を図とし、「もの派」を地と捉え、松澤宥作品を鑑賞し、意図を認めつつ否定した宮川淳の批評と共に鑑賞して頂きたい。
【ことばを読むのではなく、見たいという矛盾した感情を味わう。
芸術がトータルに存在するとすれば、それは不在においてのみだろう。
問題は、不在そのものはしかし芸術ではない、ということだ。
そこに作家の行為がなんらかの形で必然になるが、しかも、それは終局的には余剰なものだ。とすれば、不在としての芸術の現前は、余剰なものであるべき行為が、その自己運動のうちに相殺され合う過程として、はじめて可能になるだろう。】

作品1
気吹
〈気吹〉は非感覚絵画(仮称)です。眼に見えません。だから何処に在るかと探しても在りません。
しかもそれはもう過ぎ去ってしまっているかもしれませんがこの展覧会に正真正銘出品されているのです。
馬鹿馬鹿しいと言わずにしばらく読み進めてください。
皆さんはこの会場のそこの作品を、眼でとらえて認めます。ここで音を立てている作品を耳でとらえて認めます。
ところが非感覚絵画はそういう具合にはいきません。五感による感覚が邪魔をして認識することが出来ないのです。
また、あなたの心象が邪魔をして認識することが出来ないのです。
毒にも薬にもならないそんなものは意味ないよ。という声が聴こえますが果たしてそうでしょうか?
何時か何処かで皆さんは無意識にしまい込んだ事象があるでしょう?
あるいは何かを起因とし思い出した事やそうでない事があるでしょう。
それらのイメージを皆さんは眼や耳や鼻の感覚によってとらえることが出来ます。
しかも現代の人々は人工知能と林檎と数学を道具に使ってまた実験によってそのようなものの実在を認めているのです。
それと類似の在り方で非感覚絵画は在るのです。
ほらそこに、この会場のこの空間と重なって多層的に。ほら、あの袋の中の裏側に、柔らかい皮膚の温もりに それから暗い胃の奥に、また冷たい思い出の中にはりついて在るのです。

本展着手の発端は静岡を拠点に活動していた美術家集団の団体名である「幻触」という言葉の響きからだ。
なぜ幻覚の内の「幻触」であり、「幻」に「触(れ)る」とはどういう事かという点である。
ここでは「幻触」作家達の作風は見る事への問いや疑いを意識させるものである。
外部刺激の有無で、錯覚であるのか幻覚であるのかが区別されるのは言うまでもないが、
であれば幻覚の「幻触」ではなく、錯覚の「錯視」である。

ここで「幻触」ならびに石子順造の論を抜粋する。
「芸術は無償の行為だ。日常の行為と同等の無名性を含んでいる。作品の非実体化を試み、真実を拒否する虚像のかげに触れよう。自己疎外の行為の中に答がある。」(幻触記より)
「イメージのままのオブジェとか、オブジェとしてのイメージとか、理念である物体、行為である理念とかいう等位、等価の等視(といってもなお不正確であることは、もうわかってもらえたとして)は、逆理的に、絵画を絵画として成立させてきた従来までの視線が、要するに、眼を盗まれる体験であったことを証しはすまいか」
「絵画は絵画であるその〈こと〉の表象、すなわち絵画の意味は、作家の世界観や美の理念や永遠の人間性などではなくなって、〈絵画ということ〉になろうとする」(「絵画論としての絵画」より)

彼らは錯視を(意図的に)見せる事で見えているものが、見えたままのものかを鑑賞者へ問いかけ、また鑑賞者は作品を問いかけの起因として、見えているものが見えたままか否かを意識する。
錯視を起こさせる作品そのものは外部刺激であり、且つ幻覚を想起させる比喩であろう。
私たちは常に様々な情報を知覚し、意識的且つ無意識的に必要か否かを取捨選択し生きている。ただ単純に美しさを表現する以外で、無意識を意識化する装置として芸術があるのなら、先程の『幻触記』の冒頭文が意味を成してくるだろう。芸術は啓蒙ではなく、日常にありふれた事を拡大化した知らせである。と。

「作品の非実体化を試み、真実を拒否する虚像のかげに触れよう」とは、
「無意識的に刷り込まれた情報を意識的に疑おう」と読み解き、更に自論を進めると
「作品を実体化し、日常を拡大解釈する(させる)行為」がグループ「位」や「もの派」への解釈の助けとなり、
「作品を非実体化し、真実を拒否する虚像のかげに触れさせる行為」が「日本概念派」と呼ばれる松澤宥への解釈の助けとなるのではないかと思う。

最後に、
「幻触」は錯視を誘発する作品で、眼前に広がる「もの」や「こと」を疑えと隠喩し、
「松澤宥」における芸術の非物質化は、芸術の根拠を鑑賞者の観念のうちに移行させるものとして、オブジェを消し、葉書絵画や非感覚絵画と称し日常生活への侵入を見せた。何故か。
「客体(客観)」を消すと主体(主観)が残る。自己疎外の行為の中に答があるも、疎外の先に対峙するのは自身である。
芸術行為が日常行為と同等であると仮定し、主観の危うさや曖昧さを客観を消す事で顕わにすべく日常生活への侵入を試みたのではないだろうか。
主観とは誰しもが触れることの出来ない幻であるから。

この段階を一区切りとし、本展に着手した。
対概念とされる「もの派」と「日本概念派」の作品の傾向を引用し解釈の導入を試みるのが本展の狙いだ。
また、本展の表題である、「存在は不在、存在が不在」は意味の方向性を示唆し、「図と地」の関係性を意味する比喩でもある。


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手前: 作品1 《気吹》

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作品1 《気吹》

 

 

 

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作品2 《あなたの中で生きる誰かへ》

 

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作品2 《あなたの中で生きる誰かへ》

 

作品3《共感》(香り)

作品4《同情》(香り)

作品5《共苦》(香り)

作品6《無》(香り)

作品7《koh》(sound by Nicolie Binara)

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