遠藤利克「聖性の考古学」

埼玉県立近代美術館における遠藤利克展「聖性の考古学」をみた。

遠藤は世代的には「ポストもの派」世代で、既に国内外で評価の高い作家であり、公立美術館での個展に関しては、むしろ遅きに失するくらいだが、その作品内容、素材(木、水、火、)作品表面の繊細さ等を鑑みれば、今回、埼玉近美は館長を始め、担当各部の方々の永年の思いと情熱をもって周到に準備された展覧会だといえるのではないだろうか。

前置きはさておき、80年代半ばから遠藤の作品を殆んど見ているが、これだけ、一堂に展示されたのは初めてである。回顧展ではなく、その殆んどが2010年以後の作品で構成されている。
これまで、1点ずつ作品をみることが多かったが、こうして展示されると、遠藤の作品制作の一貫性がみえてくる。  遠藤は造形性を重視するというよりも、自身の世界観、美術についての深い思索が核になっており、見る側には自由な見方を許容する。
具体的には、遠藤の作品を見るのに、予備知識は殆んど必要がない。
初めて見る人も、見慣れている人も、先入観なしに、一瞬で心を捕えられる。

最近は「00考古学」という言葉が目につくようになったが、遠藤は以前から自分の仕事は考古学者のようだ、と言っていたように、日本の近代を考えるとき、日本、あるいは人類の根源から掘り起こして、思考していた。単に書物からではなく、自身で実際に現地へ赴き、自分の目で確かめていた。
従って、思いつきや他人の意見からではなく、自ら現場で実証済の強さがある。

70年代に発表を始めて以来、同時代性という意味では、時代の空気は意識していたのだろうが、盲目的に状況に流されることなく、必要なときには、寧ろ立ち止まって自省する時期もあった。

作品制作に当たっては、いくつかキータームを用いて、シリーズ化しながら自身の世界の拡大を試みていたのではないかと思われる。少しずつ未知の領域に食い込んで、侵犯しながら。
例えば、水、火、円環、アレゴリー、(神話)、Trieb、(欲動)、空洞説、と思索を進め 遠藤の世界観を形造っているのだ。人類にとって、水とは、火とは、円環とは、何か。 これらの意味するものを作品化、可視化する。又、精神世界に於いては、意識と無意識の循環性をもとに、生命の根源に迫るエロテイシズムを模索する。
作品とは、思想性と同時に情動が混然一体となって立ち現われてくるもの。基本的に遠藤の作品は、それが見事に両立している。

今回の展示は、回顧展というよりは、近作による遠藤の思考の成り立ちを美術館の空間を最大限活用して提示したと言えるだろう。

日本国内だけでなく、現在は地球規模で、人類が混迷に満ち満ちている。このタイミングで、遠藤利克展が開催されたことの意義は大きい。

T/A

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